あらゆるものに美を見出し、
いのちの喜びを表現した
陶工・河井寬次郎の世界

呉須筒描陶板「手考足思」、1957年(京都国立近代美術館)

暮らしのあらゆるものに美を見出し、いのちの喜びを表現し続けた陶芸家、河井寬次郎(1890~1966)。「暮しが仕事 仕事が暮し」だった河井寬次郎の作品と素顔について、河井寬次郎記念館の学芸員で寬次郎の孫にあたる鷺珠江(さぎたまえ)さんにインタビューしました。

京都国立近代美術館の「川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎展」が、同館に続いて、8月24日(土)から愛知県陶磁美術館に巡回します。
 

「暮しが仕事 仕事が暮し」

鷺珠江さん 《プロフィール》河井寬次郎の一人娘、須也子と河井博次の三女。昭和32年に京都市に生まれる。同志社大学文学部卒。河井寬次郎記念館の学芸員として、祖父・河井寬次郎に関わる展覧会の企画、出版、講演、資料保存などに従事する


かつて河井寬次郎の住まい兼陶房だった、京都・五条の河井寬次郎記念館を訪ねると、中庭の藤がちょうど満開を迎えていました。「この藤は、一人娘だった私の母が生まれたときに、祖父の寬次郎が清水寺の裏山から採ってきて植えたもの。寬次郎はこの藤棚の下で仕事をするのが好きでした」と、鷺さん。

明治23(1890)年、島根県安来市に生まれた河井寬次郎は、松江中学校から東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に進み、京都市立陶磁器試験場で釉薬を中心に研究。大正9(1920)年、30歳のときに、5代清水六兵衛の窯を譲り受けて「鐘溪窯(しょうけいよう)」と名付け、住まいと陶房を構えました。

記念館になっている建物は、民藝運動さなかの昭和12(1937)年に旧宅を建て替えたもの。寬次郎自ら設計し、郷里の安来から大工の棟梁だった兄と職人を呼びよせて建築しました。飛騨高山と朝鮮の農家をイメージした遊び心のある設計で、家具や調度類にも寬次郎のデザインが生かされています。

囲炉裏のある吹き抜けの板の間は、接客に使われていました。寬次郎は注連縄の清々しい美しさを愛し、松の内が明けても外すのを惜しんだそう。寬次郎にとって「美」はものだけでなく、暮らしぶりや生き方にまで関わるものでした


家族や客人が共に食事を囲んだ掘り炬燵の部屋2階にある寬次郎の書斎。河井寬次郎記念館では自由に椅子に座って、寬次郎が過ごしたときに思いをはせることができます床の間には、一人娘の須也子さんが結婚するときに柳宗悦からお祝いとして贈られた掛け軸「楽在其中」中庭の丸石は、郷里安来の友人から贈られたもの。寬次郎はしばしば庭をころがして位置を変え、丸石と庭がかもす風情を楽しんでいました中庭の藤が満開。寬次郎はこの藤棚の下で仕事をすることを好んでいました臼をくりぬいて作った椅子も寬次郎のデザインです。丸まって寝ているのは同館のマスコット的存在「えきちゃん」

中の様子は寬次郎が暮らしていたときとほとんどそのまま。庭をはさんで母屋の向かいに茶室のような小部屋、素焼き窯、陶房があり、その奥に今は珍しい登り窯が残されています。鷺さんが子どもの頃は、祖父母の寬次郎とつね、両親と子ども3人に加え、陶芸を手伝う書生さん、行儀見習いのお手伝いさんが暮らす大所帯だったそう。

「日記に『人・人・人、今日も人』と書いていますが、毎日のようにお客様が来られて、まるでサロンのようでした。家族もお客様も同じように寬次郎の器を使って気軽にお抹茶を楽しんだり、食事をしたり、いつもにぎやかでした。裏方をきりもりしていた祖母や母、女性たちは大変だったと思います(笑)」

陶房の奥にある登り窯。素焼きされた作品は、釉薬をかけた後この窯に入れられ、火度1350℃程度で焼かれました。窯の火は2昼夜にわたり、約2000束の松割木が使用されました

窯は共同窯で、約20軒の陶家が使用していました。寬次郎は前から2番目の室を好んで使い、窯焚きの日はぱちぱちと燃え盛る火の音とともに家中が高揚感に包まれていたといいます。「暮しが仕事 仕事が暮し」という言葉そのまま、この場所は河井寬次郎の美が生まれる拠点になりました。

 

「美を追わない仕事 仕事の後から追ってくる美」

河井寬次郎は、思想家の柳宗悦らとともに民藝運動を推進し、「用の美」を追求した簡素で力強い作風で知られます。その仕事は多種多様で膨大。雅な東洋古陶磁に倣った初期、民藝運動と関わっていた中期、民藝を超えて独自の創作世界に突き抜けていった後期と、大きく変化しました。

泣碗(なみだわん)、1919年(京都国立近代美術館) 京都国立近代美術館の「川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎展」より青瓷鱔血文金魚(せいじぜんけつもんきんぎょ)、1922年(河井寬次郎記念館)三彩鳥天使水注(さんさいとりてんしすいちゅう)、1923年頃(河井寬次郎記念館)

「河井は、大正10(1921)年の個展デビューから『天才は彗星のごとく現れる』と絶賛され、東洋古陶磁を範とし技巧を極めた作品は好評を博します。でも人気とは裏腹に本人の中ではもやもやした葛藤があったようです。手本としている中国陶磁の仕事は名もない職人の仕事であって、名前を超えたところに本当の美があるのではないかと考えていました」

最終的に河井は初期のスタイルを捨てて、無名陶の民藝に向かいますが、柳宗悦との出会いはなかなか刺激的です。

「最初、二人は反目していたんです。河井の初個展を『技巧は素晴らしいが何の価値もない』と柳さんが批判し、それに河井も雑誌上で反論。河井は柳さんが開いた朝鮮陶磁の展覧会を観て感激するのですが、会場でお互いに気づいても言葉を交わしませんでした。その後、関東大震災が起こり、柳さんが京都に疎開。イギリスから帰国し河井家に滞在中だった陶芸家の濱田庄司さんが、河井を柳さんのところに引っ張っていったんです。すると二人は木喰仏を介してあっという間に氷塊(笑)。共に民藝運動にのめりこみ、生涯の友になりました」

 

「新しい自分が見たいのだ-仕事する」

庭で絵付けをする河井寬次郎(1939年頃)


大正から昭和に移り変わる年に、河井は意を決して個展での発表を中断。3年の沈黙期間を経て、昭和4(1929)年に個展を再開したときは、作品から銘がなくなり、雅の美から素朴な用の美を追求した作風に一変していました。その変貌ぶりに愛好家は仰天したそう。

鉄辰砂草花図壺(てつしんしゃくさばなずつぼ)、1935年(京都国立近代美術館) パリ万国博覧会グランプリ(1937年) 「川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎展」より


辰砂刷毛目扁壺(しんしゃはけめへんこ)、1937年(河井寬次郎記念館)白地草花絵扁壺(しろじくさばなえへんこ)、1939年(京都国立近代美術館)。ミラノ・トリエンナーレ国際陶芸展グランプリ受賞(1957年)京都国立近代美術館の 「川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎展」より花絵茶器、1943年(河井寬次郎記念館)

戦後は、自らを「陶器という家の準禁治産者」と呼んで、用の美の枠を超えた自由な造形に向かい、不定形の造形に取り組みました。創作は陶器だけでなく、木彫やデザイン、書、言葉…と広がり、晩年に向かうほどますますエネルギッシュでいのちの喜びがあふれたものになります。

三色打薬扁壺(さんしきうちぐすりへんこ)、1961年(河井寬次郎記念館)手(灰釉陶彫、はいゆうとうちょう)、1962年(河井寬次郎記念館)河井寬次郎の木彫像(1955年)をブロンズにしたもの(河井寬次郎記念館)

「日用に即した作品はシンプルなように見えますが、実は複雑な工程を経ています。河井は探求心が旺盛で、新しい技法や釉薬の使い方を次々に試していました。技術と感性の絶妙なバランスが河井作品の魅力だと思います。

河井がなぜこれほど多種多様な作品を生み出せたかというと、執着がないからなんです。普通、苦労して一つの技法を完成させたらなかなか手放せないものですが、河井は自分で自分を縛らず次の興味へ向かう。言葉通り、『新しい仕事が見たいのだ-仕事する』人でした」

 

「此世このまま大調和」

木彫拓本、1945年頃(京都国立近代美術館) 「川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎展」より拓本「此世このまま大調和」、1950年頃(河井寬次郎記念館)


「すべてのものは自分の表現」
「ひとりの仕事でありながら ひとりの仕事でない仕事」
「美の正體 ありとあらゆる事と物の中から見付け出した喜」

河井寬次郎はものづくりと同時に、数々の言葉や文章を残しています。寝入りばなや明け方に言葉を思いつくことが多いので、いつも枕元に紙と鉛筆を置いていたとか。窯焚きができなかった戦時中から思索を深め、魂の内側から生み出された言葉には、作品の根本にある河井の世界観がよく表われています。

「戦争の終わり頃、山で虫が葉っぱを食べ、葉っぱが虫に食べられているのを見て、河井は痛ましく思うのですが、突然、これでいいんだ、虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っていると気づいて、『此世このまま大調和』をいう言葉を残しています。

二つあると思っていた世界は、実は分けようのない一つの世界である。造形や言葉を通して河井が見つめていたのは、自他合一の世界でした。自分が生み出している作品も言葉も自分のものではない。私という部分がどんどんなくなってこそ、本当の世界だという思いがあったのだと思います」

「手考足思」(抜粋)

私は木の中にゐる石の中にゐる、鉄や真鍮の中にもゐる
人の中にもゐる
一度も見た事のない私が沢山ゐる
始終こんな私を出してくれとせがむ
私はそれを掘り出し度い、出してやり度い
私は今自分で作らうが人が作らうがそんな事はどうでもよい
新しからうが古からうが西で出来たものでも東で出来たものでも、そんなことはどうでもよい
すきなものの中には必ず私はゐる
私は習慣から身をねじる、未だ見ぬ私が見度いから

 

河井寬次郎の世界を旅しませんか

近代日本の陶芸界に大きな足跡を残した、河井寬次郎。河井の初期から最晩年までの名品が揃う、「京都国立近代美術館所蔵 川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎展」が、8月24日(土)から愛知県陶磁美術館で開催されます。記念講演会「祖父・河井寛次郎と川勝堅一の絆」(講師・鷺珠江さん)など、関連事業も多数予定されています。「民藝」が生まれた京都、そして陶磁器のまち瀬戸へ、河井寬次郎を訪ねて旅をしませんか。

◯インフォメーション
河井寬次郎記念館
河井寛次郎記念館外観
京都市東山区五条坂鐘鋳町569
☎075(561)3585
午前10時~午後5時(入館受付は4時半まで)
月曜休館(祝日は開館、翌日休館)、夏期・冬期休館あり(要問い合わせ) 
http://www.kanjiro.jp/


◯あいちトリエンナーレ2019連携企画事業
特別企画展「京都国立近代美術館所蔵 川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎」

特別企画展「京都国立近代美術館所蔵 川勝コレクション 鐘溪窯 陶工・河井寬次郎」
会期 2019年8月24日(土)~10月20日(日)
 [前期]8月24日(土)~9月16日(月)
 [後期]9月18日(水)~10月20日(日)
(前期・後期で展示替えを行います)
会場 愛知県陶磁美術館(愛知県瀬戸市南山口町234番地)

開館時間
【8月24日(土)~9月29日(日)】 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
【10月1日(火)~10月20日(日)】 午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)
※ただし、展覧会初日は開会式のため午前11時から

休館日 毎週月曜日。ただし9月16日、23日、10月14日は開館。9月17日(火)、24日(火)、10月15日(火)は休館
観覧料 一般 900円(720円)、高大生 700円(560円)
※中学生以下無料
※学校行事の高校生は無料
※小学校・中学校・高等学校の学校行事の引率者は無料
※( )内は20名以上の団体料金
 

川勝コレクションは、大正10(1921)年に河井が初めて個展をしたときから友情を結び、亡くなるまで河井を支えた川勝堅一氏が収集し、京都国立近代美術館に寄贈したもの。初期から最晩年まで陶器を中心に425点に上り、河井の仕事の全貌を物語る「年代作品字引」にもなっています。

初個展のために上京した河井を東京駅で出迎えたのが、当時高島屋東京支店の宣伝部長をしていた川勝氏。その場でお互いの人柄にほれこみ、終生のつきあいになりました。コレクションについて川勝氏は「これは川勝だけの好きこのみだけでもなく、時として河井自らが川勝コレクションのために作り、また、選んだものも数多いのである」と回想し、「河井・川勝2人の友情の結晶」とも述べています。

コレクションを特別なものにしているのは、昭和12(1937)年のパリ万博、昭和32(1957)年のミラノ・トリエンナーレ国際陶芸展のグランプリ受賞作品が含まれていること。これらは出品を固辞する河井に対して、川勝氏が無断で自身のコレクションから出品したものでした。展覧会では、川勝コレクション約250点を展示し、河井と交友関係のあった濱田庄司やバーナード・リーチ、富本憲吉らの作品をあわせて紹介しています。

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