古代ローマの美食家がヨーロッパに持ち込んだ美味 サクランボ
ジョヴァンナ・ガルツォーニ《Chinese Porcelain Plate with Cherries》、17世紀初頭、カンヴァスに油彩、プライベートコレクション
[Public domain], via Wikimedia Commons
日本でもサクランボがおいしい季節になりました。
イタリアの市場に出回るサクランボは深紅のものが多く、日本の佐藤錦のような朱色を基準に選んで買うと、熟していなくて酸っぱいなんてことも起こります。
ヨーロッパでは、マラスキーノやキルシュといったリキュールにも用いられるサクランボは、古代から現代まで途切れることなく愛されてきた美味。一年中で一番過ごしやすい季節に出回るサクランボは、ポジティヴなイメージで一貫しています。
古代ローマの美食家ルクッルスが流行させたサクランボ
ヨーロッパにサクランボが持ち込んだのは、紀元前一世紀のローマ人ルキウス・リキニウス・ルクッルス(Lucius Licinius Lucullus, B.C.118~B.C.56)と言われています。政治家で軍人であった彼、古代ローマ随一の美食家としても有名でした。黒海南岸にあったポントス王国とローマが戦争をしたとき、ルクッルスはかの地でサクランボを発見、ローマに持ち帰りました。ポントス王国の都市のひとつ、現在はトルコのギレスンという町は古代には〈Cerasus 〉と呼ばれていました。これが、サクランボ、つまり英語で〈チェリー〉の名の由来となったというのが通説です。
ルクッルスは洒脱な人で、サクランボを食べて楽しむだけではなく、その樹木を庭園に植えて愛でました。質実剛健で知られていた共和制のローマでは、庭園に植える樹木も杉や柘植(つげ)など常緑樹が多かったのですが、ルクッルスが外国から持ち帰ったサクランボやアンズ、桃は瞬く間にローマで普及し、庭園にこれらの樹木を植えることが大流行しました。現在、ローマのボルゲーゼ公園があるあたりは、古代にはルクッルスの広大な邸宅があったと伝えられており、ここにもサクランボが植えられていたようです。
薫風(くんぷう)の季節の象徴として愛されたサクランボ
その後も、サクランボはヨーロッパで途切れることなく愛され続けました。南欧だけではなく、イギリスやドイツでも栽培が始まり、生で食べるだけではなく砂糖漬けやリキュールの材料として定番化していくのです。
フランスでは、サクランボは宮廷の貴族たちにことのほか愛好されたために、ヴェルサイユにはサクランボを栽培するための広大な温室があったほどでした。ここでは、食卓用のみならず、植物学の研究のためのサクランボも栽培されていたそうです。
可憐な色と大きさや優しい甘さは、爽やかな季節の訪れを告げる果実として絵画に描かれました。柔らかな丸みと甘みから、女性や若いカップルをテーマとした作品にもサクランボを見ることができます。
17世紀以降のヨーロッパは、フランドル派を中心に静物画が大流行し、しきりと果物が描かれるようになりました。サクランボは、こうした静物画に登場したほか、印象派の画家たちにも好んで描かれました。
キリスト教会とサクランボ
宗教画にもサクランボは数多く描かれています。
その色から、イエス・キリストの血の象徴とされたり、エデンの園の果物として登場しています。
教団や教会によって信仰の基準となる正典としては認められていない書物『偽マタイの福音書(The Gospel of Pseudo-Matthew)』では、聖母マリアと夫のヨセフ、そして幼児イエスがエジプトに逃亡するシーンに、幼児イエスの腹を満たした果物としてサクランボの名が記されています。通常エジプトへの逃亡シーンに登場するのはヤシなのですが、ヤシの実が育たないイギリスで記述されたといわれるこの福音書、サクランボがヤシの実の代用であったというわけです。
こんなエピソードもあります。
大聖グレゴリウス(Gregorius I, 540~604)と〈大〉付きで呼ばれる中世初期のローマ法王は、大のサクランボ好きとして有名でした。
早春、まだサクランボの実がならない時期にこの果物を切望した彼を憐れんで、聖マルコが奇跡を起こし木にサクランボの実をならせたのだとか。
偉大なるキリスト教会の聖人も、甘いサクランボの前ではその威厳も形無しといったところでしょうか。
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