「寺山修司 ノック展」 CURATORS TV

「寺山修司 ノック展」 CURATORS TV

「寺山修司 ノック展」のギャラリートーク

スピーカー

和多利浩一

会場

ワタリウム美術館

会期

2013年7月6日~10月27日

展示について

寺山修司(1935-1983年)ほどアナーキーで実験的な活動をした創作者はいなかったのではないでしょうか。10代の頃、青森にあってすでに天才歌人の名をほしいままにし、大学入学のため上京し、詩人谷川俊太郎の薦めでラジオドラマを手掛けます。台詞となった寺山の言葉は時代にのって走りだし輝き、ついに「天井棧敷」の活動へと続いていったのです。 本展のタイトル「ノック」は、1975年4月19日、東京阿佐ヶ谷近郊で行なわれた30時間の市街劇のタイトルです。「あなたの平穏無事とは一体何なのか? 」(寺山修司 朝日新聞 1975年5月7日)と地域住民の玄関の扉を突然ノック(ノックに傍点つける)する、というものでした。「驚いた人が110番」(東京タイムズ 1975年4月20日)し、警察が駆けつけたという一幕もありました。本展ではこの市街劇「ノック」の真意を映像や多数の未発表資料などによって詳細に検証します。 また、当時「天井棧敷」が実施した夥しい数の海外公演が高く評価された点にもあらためて注目したいと思います。 1983年、寺山修司は47歳という若さで多くの謎を遺しこの世を去りました。寺山はいったい何を目指し、書を捨て街へ出ていったのか。本展ではその謎を現代の視点から探ります。かつて、私は、「街は大いなる開かれた書物である」と書いた。 しかし今ならばこう書き直すことだろう。 「街は、今すぐ劇場になりたがっている。さあ、台本を捨てよ、街へ出よう」と。 演劇論Ⅱ「臓器交換序説(抄)」より 1982年 knok展示内容:第1章 青森・三沢時代(天才歌人誕生) 第2章 東京へ(シナリオの中で輝きを増す言葉) 第3章 あゝ、荒野(森山大道の写真) 第4章 幻想写真館と実験映画 第5章 演劇実験室「天井棧敷」

アーティストについて

寺山修司(てらやましゅうじ) 略歴 1935年 12月10日、寺山八郎、はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれる。1954年 18歳 早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。1957年 21歳 病状の小康をみて、第一作品集『われに五月を』(作品社)が出版される。1959年 23歳 谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始める。投稿した『中村一郎』(RKB毎日)にて、民放祭会長賞を受賞。1967年 31歳 横尾忠則、東由多加、九條映子(今日子)らと演劇実験室「天井棧敷」を設立第一回公演「青森県のせむし男」を皮切りに「大山デブコの犯罪」「毛皮のマリー」と次々に上演する。1975年 39歳  東京・杉並区で市街劇「ノック」(構成:幻一馬)上演中に警察が介入、新聞の社会面をにぎわす。1983年 47歳 午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、死去。享年47歳。

スピーカーについて

和多利浩一(わたりこういち)1960年生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。80年オン・サンデーズ設立、83年美術メディア出版社イッシプレス設立。90年よりワタリウム美術館キュレーターを務め現在に至る。92年ドクメンタ9で日本人として初めて働く。95年第1回ヨハネスブルグ・ビエンナーレの日本代表コミッショナー。「原宿・神宮前まちづくり協議会」を発足させ、その初代代表幹事を務めた。

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