“真っ白な闇” に佇む「ひと」と対話してみた。
内藤礼 《Praying for Tokyo 東京に祈る─「わたしは生きた」》「東京ビエンナーレ2020/2021」

“真っ白な闇” に佇む「ひと」と対話してみた。 内藤礼 《Praying for Tokyo 東京に祈る─「わたしは生きた」》「東京ビエンナーレ2020/2021」

“真っ白な闇” に佇むその「ひと」は、時空を超えて語りかける魂そのもののようだった。

「東京ビエンナーレ2020/2021」で展示中の内藤礼《Praying for Tokyo 東京に祈る─「わたしは生きた」》に行ってきた。

夕方の3時間のみの公開、各回20分1名のみの完全予約制ということもあって、あっという間に完売状態。主催関係者ですら見られないというレアぶりだったが、こまめにキャンセルがないかチェックした甲斐があり、見る、いや体験することができた。


東京ビエンナーレ2020/2021
 

ギャラリー空蓮房の外観

会場のギャラリー空蓮房は蔵前にある長応院境内にある。蔵前は浅草と浅草橋の間にあり、秋葉原や上野といった賑やかな街に近い場所だが、寺が多い静かな住宅街で都心のエアポケットのようなところだ。長応院の周辺にも寺社が多くあり、神聖な雰囲気がある。もっとも、このところ蔵前はおしゃれな街として認識されつつあり、長応院前の区立公園を挟んだ向こう側にはショコラティエがあったりする。

長応院は慶長年間創建という歴史ある寺院だが、都心の寺院らしく門を入るとすぐに本堂というつくりで、広い境内や墓地があるわけではない。そうした敷地のどこにギャラリー空蓮房があるのか検討もつかず、入口脇の建物の前でスタッフの方が案内してくれるのを待っていると、「ではご案内します」と言うと私の立っていたすぐ後ろの建物にある低く四角い黒い扉を開けた。

扉の向こうには、奥に向かって、狭くて頭を下げないと進めないような玉砂利が敷かれたアプローチがあった。スタッフから履物を手渡され、奥に進むように促される。アプローチを進んだ突き当たりで、履物を履き替えると、スタッフが20分後にお声がけします、というと表の扉が閉められた。

 

ギャラリー空蓮房。扉をあけると玉砂利を敷き詰めた アプローチが。展示室は突き当りの右手にある

ここから先の展示空間は、残念ながら撮影NGなので、どんな展示だったかテキストからご想像を。展示室内の写真は2012年に同ギャラリーで行われた内藤さんの個展の様子だ。

アプローチの突き当たりにある、履物を履き替える石の踏み板のすぐ右手に展示空間があるのだが、そこには空間がある“だろう”ということしかわかない。なぜなら、その先は“真っ白な闇” だからだ。なぜ、真っ白なのに闇かというと、最初は真っ暗なのだが、目が慣れてくると、壁も床も天井も真っ白なことに気づくのだ。さらに展示空間の角は緩やかなカーブになっており、そのためにますます空間のサイズが読みにくくなっていて、足を進めるのもしばらくためらわれた。

目が慣れると最初の空間には作品らしいものがなく、さらに右側から仄かな明かりが漏れてくることに気づく。初めのその明かりは壁に長方形に弱く照らされている灯りだと思っていた。しかし、目を凝らして近づいてみて、ようやく奥の空間への入り口だとわかった。奥の部屋に入ると、明かりが入っているためか、手前の空間よりはよりはっきり、上下四方すべてが白く、角のない空間だとわかった。広さも両手を広げてもつかないぐらいの幅があり、天井も思ったより低くない。

空間の右手奥の天井から自然光が落ちている。柔らかで厳かな光だ。この柔らかさは明らかに自然光だ。わずかに開けられた隙間からあかりが差し込んでいる。その下の床に、壁に背を向けて「ひと」が佇んでいた。

 

《ひと》 2012、空蓮房、Photo by 畠山直哉

 

《ひと》 2012、空蓮房、Photo by 畠山直哉

「ひと」と聞いて内藤さんの作品をご覧になったことのある方なら、あの小さな「ひと」だとピンと来た方も多いと思う。「ひと」は内藤さんが手がける最小の彫刻で、まさに小さな人型をした彫刻だ。あるときは広い床にぽつんと立っていたり、本棚にひっそりと立っていたり、窓の前で外を眺めるように立っていたりする、あの「ひと」だ。

仄かな明かりだけが頼りで、残念ながら遠近ともに若干不自由な視力の私にとっては、「ひと」がいるんだろうな、ぐらいの認識で、肉眼でしっかり見るために、床にへばりつくような鑑賞となった。ひとしきり鑑賞すると、それでも時間は半分ほど。スタッフの方に声をかけて早めに出る、という選択肢もあったが、たった一人で作品を独り占めできる大変貴重で贅沢な時間を過ごした。20分の鑑賞時間が終了してギャラリーを出ると、噎せ返るような熱気と盛大な蝉の鳴き声が、一気に現実に引き戻してくれた。

続いて、スタッフが2つ目の作品へ案内してくれた。作品は長応院を出てすぐ近くにある、ビルの谷間の墓地にあった。墓地内に入ってすぐに、小さな子どもが足にすがりつく地蔵尊が祀られていた。東京大空襲の際に犠牲になった子どもたちと無縁仏を弔うため、地元の町会が祀ったものだ。その足元に供えられていたのが、溢れそうなほど水でいっぱい注がれたビンがその作品だ。焼夷弾を使った攻撃は著しく激しい火と熱を放つもので、多くの犠牲者は水を求めて亡くなった。

さらに3つ目の作品は、上野にある台東区立黒門小学校にある防空壕跡にある。「ひと」はここにも佇んでいる。残念ながら、こちらは非公開となっている。

 

《無題》 2009(2008-)、神奈川県立近代美術館鎌倉、Photo by 畠山直哉

隅田川を挟んだ台東区、墨田区は東京大空襲で焦土となった場所だ。都立横網町公園での戦災関連の展示を拝見したこともあったし、東京に限らず日本全土で同様な犠牲があったことは知識として知っていた。戦争経験者から直接お話をうかがったことがあったものの、やはりどこか現実と捉えていなかったところがあった。今回の展示が東京大空襲に思いを馳せているということを意識して、作品に向き合った。

空蓮房でひとしきり鑑賞した後、私はここに生きた人々を思いながら、「ひと」に話かけてみた。
ーあなたはどなたですか? ーどこからきたのですか? ーなぜそんなに小さいのですか? ーなにかお話しませんか?
「ひと」は私になにか応えてくれたように思えた。少しでも、ここで生きた人々に近づけていたら、よいのだが。
 

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