インタビュー:森村泰昌 No.02
by NIIZAWA Prize

鈴木大輔

鈴木大輔

森村泰昌《肖像・ゴッホ》1985年

森村泰昌(もりむら やすまさ)さんは、1951年大阪市天王寺区に生まれ、育ち、そして今も大阪で制作を続けている日本を代表する美術家です。
京都市立芸術大学を卒業後、1985年にゴッホの《包帯をしてパイプをくわえた自画像》(1889年)に森村さん自身が扮した《肖像・ゴッホ》(1985年)で遅咲きながら実質的なデビューを果たし、初めて展覧会評も美術雑誌に載ったとのことです。
1989年にはベニスビエンナーレ/アペルト88に選出され国際的にもデビューを果たし、その後は美術に”なる”をテーマに、一貫してセルフポートレートの手法で西洋美術の名画、日本美術の名画、ハリウッドスター、20世紀の偉人などに扮して作品を作り続けています。

本稿は、NIIZAWA Prize by ARTLOGUEの「NIIZAWA 2016」受賞を機会に、森村さんへインタビューをしました。

 

インタビュー:森村泰昌 No.02

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自由に自分の好きなことを、好きな絵を描く。そして楽しむ。なにやってもいいという世界がフィットした

 

鈴木大輔(以下 鈴木):今だったら作品を制作する時にはチームを動かしてますし、若い時にもイベント(「テクノテラピー」1998年 大阪市中央公会堂)をプロデュースしたり、結構アクティブにリーダーシップを発揮するイメージだったのですが。

森村泰昌(以下 森村):それは全然違うんだよね。この前の国立国際美術館での展覧会(「森村泰昌:自画像の美術史-『私』と『わたし』が出会うとき」 2016年)だと本当にたくさんの人が関わっていてくれて、映画も作ったんだよね。

そうすると、ちょっとしたお手伝いの学生さんも含めるとざっと数えて毎日30人くらい人はいるんですよ。でも、僕が中心になってリーダーとしてみんなを引っ張っていくという感覚は全くないですね。なんか勝手に動いてます。大体、僕がその映画を撮るって言ったときに、自分が演じるでしょ。ほなもう、絶対動けない。だから僕がなんかするっていうことができない立場ではあるんです。だから誰かが何かをやってるんでしょうね。僕が止まって演技してると、その周りに何十も人がいて、なんでか知らないけど走り回ってるとか。

 

森村泰昌《「私」と「わたし」が出会うとき―自画像のシンポシオン―》2016年 作家蔵
森村泰昌《「私」と「わたし」が出会うとき―自画像のシンポシオン―》2016年

 

トップダウンのように上に誰かがいて、その人の手足になって動くっていうようなチーム編成とは違うんじゃないかな。
「森村さんがこうしたいと、言ってもらわないと僕らは動きたいけど動けない」って言うから、そのときに僕はどうしたいか、つまり「最終的な着地点はこういうものだというビジョンを僕がわかってるんやったら苦労せえへんって」、と言ってるんですけどね。
「僕がわかれへんのやから、みんなわからへんのは当たり前やな」とか言いながら、それでもなんとかなるのが不思議やね。最終的には段々見えてくる、それらを編集というか、出来てきた断片を全部まとめ上げて、かたちにするっていうのは僕やから。

細かい話でいったら、僕は額縁屋さんとも、美術館とも、それからコンピューター合成もあるからカメラとか、みんなと話をしたりしているうちに新しいアイデアが出てきたりして、ガラガラっと全部変わってしまう。そこは予測不可能やけれども、いずれにせよ作品なり展覧会なり出来ています。
そしたら、関わってくれた人たちも「あっ、こう言うことやったんや」というのが、そこでやっと分かるという段取りなんですけど。自分らがやっていたことが後付けで分かってくるときの快感はあるん違うかな。

 

面白いなと思うのは、僕の作品創りを通じて、関わる人がみんな芸術というものに触れることができること。

 

鈴木:昔から、リーダーシップがあったわけではなく、今もまたリーダーシップを発揮してるわけではなく抱え込んでいるだけということですか?

 

森村:むしろそうですね、抱え込んでる。リーダーシップというより、抱え込んでいるから支えてやらんとひっくり返りそうなんで、みんなで支えてくれてるっていう印象ですね。そういう感じでえっちらおっちら行ったら結構素敵なところに行けるみたいな。そこが面白いんじゃないかな。

 

鈴木: 支えてくれるっていうのも、人徳ですね。

 

森村:僕も含めてですけど、面白いなと思うのは、僕の作品創りを通じて、関わる人がみんな芸術というものに触れることができること。僕の作品に関わると言うことは、それを通じて、膨大な何百年、何千年かの美術史の流れの中に自分がちょっと触れる感覚があるわけですよ。
例えばデューラーをテーマにするとしたら、鑑賞するっていうレベルとはちょっと違っていて、デューラーのアトリエにちらっと行ける感じ。美術の真髄というか、そこに触れる体験を、照射できるみたいなんですよ。そこはね僕も含めてですけど面白いです。

森村泰昌《自画像の美術史(デューラーの手は、もうひとつの顔である)》2016年 作家蔵
森村泰昌《自画像の美術史(デューラーの手は、もうひとつの顔である)》2016年

 

鈴木: そこが、みなさんが関わってることの満足度だったりベネフィットに繋がってると?

 

森村: みんなは当然芸術に興味持ってる人たちばかりなんやけど、非常に遠いところにある美術史の世界、昔やったらレンブラントとかの工房があって、いろんな人が関わって作品つくってるでしょ。そういう感覚と同じようなものを味わえる。芸術に触れるワークショップっていうかね、そういう感じもあると思うんですよ。

 

鈴木:アーネスト・サトウさんを師事されていましたが何か影響はありますか?

 

森村:サトウ先生は、最初は大学ですね。大学の2年生か3年生のときに、染色の人でも油絵の人でも日本画の人でもみんなが半年間学べる映像教室という共通実技があって、それの写真の先生だったのね。興味があって僕もそこを受けてそのときが始まりなんです。
そのあとは、1980年かな、今の場所に京都市立芸術大学が移転するんです。そのときに少し体制が新しくなって、アーネスト・サトウ教授の助手というか、非常勤講師なんですけど、僕が行くようになって、いろんなことを教わったというわけなんです。

サトウさんはずっとアメリカで写真の活動をしてた人なんです。サトウさんに出会うまでは、写真というと日本の写真しか知らなかったんですが、全然違った世界があることをサトウ先生を通じて初めて知りましたね。
写真の美学とか、様々な写真家とか写真の歴史とかもあるけど、もうちょっと具体的に言ったら、どんな引き伸ばし機を使ったらいいかとか、カメラ雑誌なんかで見ているのとは全然違うようなものを彼は良いといい、それらが暗室にあったりするわけです。
そういうのを知って、今まで僕が思い描いていた写真の世界とは全然違う世界をそこでイメージさせてくれたっていうのは大きいですね。

 

ちょっと美術作品を創ることに限界を感じるときがありました。

 

鈴木: 卒業後、就職されてますよね?

 

森村: 卒業して就職しなきゃいけないなと思い、デザイン科っていうのもあって、某企業のデザイン部みたいなところに勤めたけど3日で辞めました。
勤めたとも言えない研修の段階で辞めてしまったので、それから教員採用試験を受けて高校の先生を目指したり、非常勤講師として日替わりでいろんな大学、短大とかに行ったりしてましたね。

 

鈴木:その状況でも作品は創り続けていたのですか?

 

森村:細々とね。それからあるとき、何年くらいか忘れましたけど、ちょっと美術作品を創ることに限界を感じるときがありました。
昔から宮沢賢治とかが好きだので、童話作家みたいなことしたいなと思って全部辞めて、近所の大阪文学学校に何年間か行きましたね。
それでメルヘンというか、童話作家、児童文学とかをやりたくて、一生懸命文章を書いたり、同人誌を作ったりしてました。でも、それもなかなか大変で、大変でって当たり前なんですけど難しくて。
僕が70年代だったと思うけど、そのときに、絵本ブームっていうのがあったんですよ。絵本だったら絵を描くことと、文章と両方がミックスしたようなものができるんで、それかなと思って、絵本を作るのに一生懸命になった。もちろん原画だけで別に本になったわけでもなんでもないけど。
ある出版社に、児童文学の先生に頼んで持って行ってもらったら、「いやー、ちょっと気持ち悪すぎる」みたいなことになって、ダメやったりとか。

 

森村さんの描いたマンガ絵本(1970年代後半〜80年代初?)
森村さんの描いたマンガ絵本(1970年代後半〜80年代初?)

 

そんなことをやっているときに、アーネスト・サトウ先生から週に何回か、映像教室を手伝ってくれないかって言われたので行くことになって。
最初断ったんですよ。「僕、絵本とかやりたいし、写真興味ないし」とか言ってたんですけど、結局、先生がうまくて、「週に何回かだから来て、嫌だったら辞めればいんだよ」とか言って。そう言われりゃ断わりきれなくって、それがきっかけで写真の世界に戻るようになって。

それはもう80年代なんですよ。70年代のコンセプチュアルな観念的な芸術から少し変わって、日本の80年代というのは独特の芸術のムーブメントが起こった。その80年代の新しい時代をつくり出していったのが、当時の若い学生たち。僕は非常勤講師やったから僕らより10年から、一回りぐらい下の人たちだったんですよ。

その人たちが、僕が非常勤講師で教えていた映像教室に来てたんです。例えば、石原友明とか、松井智恵とか。彼らは非常に新しい表現をその頃やっていて、学校の中がざわざわしてる感じだったんですね。

そういう若い先生とか学生とかみんなで関西のニューウェーブっていうムーブメントをつくってたり、東京でも同じような動きがあって、東京の動きと関西の動きがリンクするような感じでもっと大きな動きになっていったりというのが80年代の時代。それをすごいなぁと思いながら見ていて。
僕は先生だから撮っているけど、別に見せたりしないで、ちまちま自分の中で作っていて。そうすると、「森村さんも展覧会やってくださいよ」みたいなことを学生に言われ、1983年に初めてロシア構成主義みたいなシルクスクリーンの版画作品で、京都のギャラリーでの個展をやったのが始まり。

 

ロシア構成主義のようなシルクスクリーンの版画作品
ロシア構成主義のようなシルクスクリーンの版画作品

 

2016年9月~11月も恵比寿のギャラリーMEMで84年から85年あたりの写真作品を中心に「森村泰昌展 「私」の創世記」という展覧会をしたんですよ、モノクロの。それは、映像教室を中心としたメンバーでグループ展やろうとなり、僕も参加していた頃の作品なんです。
その流れの中で、僕と石原友明と、筑波大学にいる木村浩さんっていう3人の映像教室の先生たちで1985年に「ラデカルな意志のスマイル」っていう展覧会をやったんです。

 

森村泰昌、石原友明、木村浩による展覧会「ラデカルな意志のスマイル」
森村泰昌、石原友明、木村浩による展覧会「ラデカルな意志のスマイル」

 

その頃はモノクロ写真でロドチェンコとか、モホリ=ナジとかをイメージさせるような作品つくってたんだけど、やっていくうちに、だんだんこれではないなっていう感じを持ち始めて、割といきなり《肖像・ゴッホ》っていう作品を発表したんですね。

それが、いきなりのイメージチェンジというか、いきなりカラーの大型、そしてセルフポートレートで、顔だけみたいなそういう作品だったんで、みんな「あれ? これなんやねん」っていうことになって。「なんやねん」って言われても僕も「よーわからへんねんけど、とりあえずこれです」みたいなことでやってたのが85年。僕の今のスタイルの始まりですね。

 

森村泰昌《肖像・ゴッホ》1985年
森村泰昌《肖像・ゴッホ》1985年

 

次回へつづく

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本稿は、NIIZAWA Prize by ARTLOGUEの「NIIZAWA 2016」受賞を機会に、森村さんへインタビューをしました。

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NIIZAWA 2016 森村泰昌  「奴江戸兵衛」としての私 1996年
NIIZAWA 2016 森村泰昌
「奴江戸兵衛」としての私 1996年

 

 

鈴木大輔

ARTLOGUE(株式会社アートローグ、一般社団法人 WORLD ART DIALOGUE) 代表取締役CEO/編集長。大阪市立大学都市研究プラザのグローバルCOEに於ける研究プロジェクトを経て起業。2014 年グッドデザイン賞受賞、2015 年度 京都大学GTEP プログラム(文科省)ファイナリスト、2016 年ミライノピッチ(ビジネスコンテスト:総務省近畿総合通信局)においてグローバルイノベーションに値するOIH 賞を受賞。 (公財)京都高度技術研究所の「京都ビジネスデザインスクール」TA。文化経済学会、デジタルアーカイブ学会所属。 アートを利活用し、より良い社会の実現を目指すアートイノベーター。