嗅覚で感じる戦争 ー 「あの場所」にあった匂いを再現する《戦争の果汁~広島と長崎》

芝田江梨

芝田江梨

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時に、嗅覚は私たちに強く働きかけ、感情や記憶を揺り動かします。

皆さんは、そんな嗅覚とアートの融合を試みる嗅覚のアーティスト、上田麻希さんをご存知でしょうか。

上田さんは、思い出、感覚、感情、歴史、戦争など普通は匂いと結び付けられないようなモノゴトを取り上げ、「視覚的な要素を排除すればするほど、嗅覚体験が強くなるのではないだろうか」と、嗅覚を媒介とする作品の創作を行っています。

中でも、2015年ベルギーで開催された「戦争の匂い」展に出品した《戦争の果汁~広島と長崎(The Juice of War - Hiroshima & Nagasaki -) 》は大きな反響を呼び、上田さんは世界的な嗅覚アート(オルファクトリー・アート)のコンペ「アート・アンド・オルファクション・アワード 2016(Art and Olfaction Awards 2016)」のファイナリストにも選出されています。

平成最後の年となり、太平洋戦争が終わった日はどんどん遠くなります。広島、長崎の原爆の日、終戦記念日を悼む8月、作品《戦争の果汁》をご紹介します。


目次

 

olfactory art ー 嗅覚も一つのメディア

 

上田さんはもともと大学で、マーシャル・マクルーハンに影響を受けた学問(環境情報学)を学び、卒業後もメディア・アートやインタラクティブ・アートを制作されていました。

電気を使わないアナログな嗅覚アートとその当時の活動を比べると、大きな方向転換のように思えますが、マクルーハンが人間に備わった器官が拡張したものを「メディア」としていたこともあり、嗅覚をアート表現の一つの「メディア」と捉えることは、上田さんにとっては、ごく当たり前のこと。様々なお茶やコーヒーの匂いを蒸留で抽出した作品《MENU FOR THE NOSE》(2005)を皮切りに、次代のアートとして意識的に取り組んでいたそうです。

2015年にドイツの展覧会「There is something in the air」で発表された《嗅覚のための迷路 ver 2》
2015年にドイツの展覧会「Something in the air - scent in art」で発表された《嗅覚のための迷路 ver 2》
2009年より上田さんがオランダ王立美術学校で講義を担当している「嗅覚のゲーム」の授業風景。嗅覚は極めて個人的な感覚。表現としてそれが長所になる場合もあれば、批評の曖昧さを招いて短所となる場合も。「嗅覚のゲーム」では学生達は、匂いを記号化して遊ぶインタラクティブな作品の制作に取り組むことに。
2009年より上田さんがオランダ王立美術学校で講義を担当している「嗅覚のゲーム」の授業風景。嗅覚は極めて個人的な感覚。表現としてそれが長所になる場合もあれば、批評の曖昧さを招いて短所となる場合も。それを踏まえ「嗅覚のゲーム」では、あえて匂いを記号化して遊ぶインタラクティブな作品づくりが課題となります。


当初「olfactory art(オルファクトリー・アート)」すなわち「嗅覚アート」 という言葉は一般的ではなく、自分の活動を表現するため、「scent art(セント・アート)」「smell art (スメル・アート)」など簡単でわかりやすい言葉を使ってご自身の活動を表現されていましたが、興味の対象が匂いではなく嗅覚であることが明確になるにつれ、「olfactory artist 」(嗅覚アーティスト)というふうに自己紹介するように。

同時期、メディア・アートの世界において、MIT(マサチューセッツ工科大学)周辺で「haptic art(ハプティック・アート)」(触覚アート)が成立しており、その延長で olfactory art という言葉が思い浮かんだのだとか。

 

「戦争の匂い」展

 

「戦争の匂い」展は、人類史上初めてガス兵器が戦闘に使用されてから100年という節目に向け、嗅覚アーティストとして世界的に最も有名な ペーター・デ・クーペレ(Peter de Coupere)が企画、キュレーションを担当しました。会場となったのは、ベルギーの町ポペリンゲにあるドゥ・ロヴィ城。こちらは第一次世界大戦中、英仏連合軍の本部として使用されていました。

ペーターさんは、嗅覚アーティストとして上田さんよりも長く活動し、誰もまだ嗅覚をアートの対象として認識してくれない時代から共にコツコツと開拓を続けてきたいわば戦友。そんな彼からの誘いがあり、上田さんは「戦争」といった具体的なテーマが前提となった、画期的な匂いの展覧会に参加することになったそうです。

 

戦争が放つ匂いに期待されること。自分にとっての戦争を問う中でうまれた《戦争の果汁》

 

それまで上田さんは、「戦争」をテーマにした作品を制作しておらず、展覧会に向けて、新作に取り組むことに。

「戦争の匂い」展で「戦争の悲惨さを匂いで訴える」ことが求められているのは明らかながら、それを表現することに安易さを感じたそうです。

新作制作にあたり、上田さんは国内外の「戦争の匂い」をリサーチしました。しかし「自分にとっての戦争ってなんだろう?」という問いに対する答えは、一つでした。その原体験となったのが、小さな頃に見た広島と長崎の写真集。上田さんは「そこにあったであろう匂い」を冷静に再現してみようと思い、制作を開始しました。

上田さんにとって、原爆が投下された広島、長崎のイメージは「はだしのゲン」。被爆者の方の遺体が、夏の陽射しにさらされ累々と並ぶ世界でした。原爆という言葉が想起させる視覚的なイメージを様々なメディア、表現で目にされた方は多いと思いますが、「におい」化されたものを体験された方はいないのではないでしょうか。

被爆直後の世界をシュミレートし、その場にあったと思われる匂いを再現、抽出する作業が工房で行われました。焼いた肉を腐らせていく作業はグロテスク、放つ匂いも想像を絶するもので、上田さん自身精神的にもかなり負担があったそうです。


嗅覚アートはその性質上、「動物や虫を寄せ付けない」「人間を対象とした匂い」「人間が生理的に嗅げる程度の濃度」であることが重要です。このいずれかが欠けていると、鑑賞すら出来ず、展示も危ぶまれる事態となってしまいます。最終的に抽出された匂いは、この3点を踏まえて調整、実際の展示では、鑑賞者はアクリルのヘルメットのようなものを「ヘッド・マウント・ディスプレイ」のようにしてかぶり、その中で匂いを嗅ぐという仕掛けになりました。

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《戦争の果汁》の展示プラン

 

嗅覚アートとして「戦争の匂い」に取り組んで

 

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《戦争の果汁》の展示風景

上田さんは《戦争の果汁》について次のように語ります。

「匂いで戦争の悲惨さを訴える」という展覧会の趣旨が、センセーショナルかつエシカルだったこともあり、万人に受け入れられやすく、「アート・アンド・オルファクション・アワード 2016」のファイナリスト選出へもつながったのだろう、と思います。嗅覚アートを知らなかった方への反響も大きく、日本でもひとつの模範回答を作ったのかもしれません。

その一方で、この作品でファイナリストとなったことはやや不本意なのだそうです。嗅覚アーティストとして、匂いの「パワー」がとても強力だという自覚があるからです。

戦争の悲惨さをその「パワー」を借りて伝えることはまだ悪くないかもしれません。でも、匂いで人を殺すことだってできるし、異性を落とすことだってできる、それだけの危険な力を秘めた「匂い」を、いかなるプロパガンダにも使いたくないという思いが強まりました。

《戦争の果汁》の制作、展示を通して、「匂い」のパワーを使う場合は、細心の注意が必要であることを改めて痛感されたのだそうです。

 

編集後記


まだ地球上から紛争はなくなっていないながら、日本に生まれ戦争を実際体験したことはありません。知識としてしか知らない戦禍をどう問い直し、共有していくか。嗅覚にフォーカスしてそれに取り組まれた上田さん。戦争、原爆というテーマの重さから、ともすれば、アートでそれらを表現することは誤解すら招きかねません。戦争を繰り返してはいけないと思う私たち世代にとって、自分なりの方法で戦争に向かい合うことは避けられないし、重要な課題です。

日本ではまだ一般的ではない嗅覚アート。一方ヨーロッパ、特にオランダのアムステルダムでは、嗅覚アートを巡る動きが非常に活発とのこと。

ただ嗅覚アートは、まだ途上の表現であり、どこにオリジナリティがあるのかさえ、きちんとした共通認識がない状態なのだそうです。どの作家も体臭や街のアロマ・スケープをテーマとして扱うので、似た作品ばかりに見えることも。だからこそ、上田さん達は、自分たちがいまそのシーンを作っているという意識の下、議論を重ねながら嗅覚アートに取り組んでいます。

最後に上田さんからのメッセージです。

これまで約10年、オランダの王立芸術大学で嗅覚アートを教えてきましたが、そろそろ日本の大学で本格的に嗅覚アートあるいは嗅覚教育の拠点を持ちたいと考えてます。美術や 音楽は、小中学校で基礎を学びますが、嗅覚に関しては基礎的な知識さえ私たちは持ち合わせていません。しかし嗅覚で展開するクリエイティビティなデザインやアート活動は、 欧米では「次のアート」として急速に盛んになってきています。これを読んでもしご興味を持たれた方がいたらぜひご連絡ください。

 

〈アーティスト・プロフィール〉

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MAKI UEDA (嗅覚のアーティスト)


1974年東京生まれ。2000年よりオランダ在住。2000年文化庁派遣若手芸術家として、2007年ポーラ財団派遣若手芸術家として、オランダ&ベルギーに滞在。

2005年以来、嗅覚とアートの融合を試み、匂いを素材として作品を制作・発表する。欧米で流行中の嗅覚アート界の先駆者的アーティストのひとり。欧州の新聞や雑誌にて「世界のトップ・ファイブ嗅覚アーティスト(by Caro Verbeek)」「多産な実験的嗅覚アーティスト(by Clara Muller)」と評される。2009年よりオランダ王立美術学校の学部間学科ArtScience非常勤講師として教鞭をとり、世界初となる嗅覚アート・コースを教える。現在は石垣島を拠点とし、ヨーロッパを中心に世界各地で展示やワークショップを展開する。

2009年、ワールド・テクノロジー・アワード・ファイナリスト、2016年嗅覚アートアワード"Art & Olfaction Awards"ファイナリスト。

石垣島では嗅覚教育と嗅覚のツーリズムに取り組む。アトリエPEPE、香りの学校主宰(http://www.pepe.okinawa)。
オンライン・ポートフォリオ:http://www.ueda.nl/