~言葉に置き換えることのできない身体の美を巡って~伴田良輔×谷川渥『CURVES 柔らかな景色』トークショー

~言葉に置き換えることのできない身体の美を巡って~伴田良輔×谷川渥『CURVES 柔らかな景色』トークショー

伴田良輔の新作にして集大成的な写真集『CURVES 柔らかな景色』の出版に伴い、写真展が六本木の山崎文庫で開催された。本作は作家、美術評論、翻訳など様々な遍歴と葛藤を経て、写真家として独自の表現を確立した伴田の、到達地点とも言える。

会期中にはトークショーが毎週開催され、その最終回には美学者・谷川渥を招き、興味深いトークセッションが繰り広げられた。
 

左:伴田良輔  右:谷川渥


伴田良輔(以下、伴田):「谷川さんとお会いしたのはまだ一年位前ですね。僕は神保町に小さなギャラリーを持っていまして、そこに谷川さんがフラっといらっしゃったのが出会いです。突然のことに驚きましたけれども、それから親しくさせていただいています。僕自身興味を持っている美術に対する切り口をより専門的に掘り下げてらっしゃるので、師のような存在です」

谷川渥(以下、谷川):「ありがとうございます(笑)。具体的にお話をするようになったのはこの一年くらいですかね。伴田さんの作品はヌード写真集の中でも一際、異彩を放っていると思います。非常にフォーマリスティックなんですよ。女性の持っている曲線というのはフロイトに言わせると第二次性徴の賜物なんですね。思春期以降に女性ホルモンが出て曲線が生まれた。正に『CURVES』なのですが、猥褻感が一切ないんですよね」

 

伴田がエロティシズムの表現者たちのアーカイブを巡って辿り着いたのは 「では、お前は何にグッとくるのか?」という自分への問いだった。それは30㎝の距離にあった。

伴田:「僕が執筆家としてデビューしたのは『GS』というニューアカデミズム雑誌の性の特集に寄稿したのがきっかけで、同じ版元の冬樹社から出版することになった『独身者の科学』(1985年)という本が最初の本です。ギリシャ・ローマ時代から現代までの性に関するアフォリズムをちりばめながら、性とは何か?というテーマを横断的に取り上げました。ハイ・アートと、サブカルチャー、芸術とポルノ・グラフィティの区別をあえてつけずに、人類にとって性って何なの?という問題を、学術書にはできない視点で扱いたかった。その中で性愛の周りにあるオナニズム的な妄想こそが人間の特徴であるという古今東西変わらない事実が浮上した。「結婚していようがしていまいが、全ての人間は独身者である」と。これを、アートの文脈のいわゆる「独身者論」へとリンクさせていきました。このあたりは、まだまだこれから(今度の本で)谷川さんと対話したいと思っています」

谷川:「それこそデュシャン以降ですよね。世紀末に自転車漕いだりしたアルフレッド・ジャリの。あれも独身者でしょ。沢山あるんですよ、独身者機械をめぐる美術や文学って。生殖に繋がらない性的活動のことですよね」
 

マン・レイが撮影したマルセル・デュシャン © 2019 Artists Rights Society (ARS), New York

 

The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Green Box) © 2019 Artists Rights Society (ARS), New York

伴田:「1995年に当時色々なワンテーマシリーズで非常に勢いのあった「別冊宝島」編集部から連絡があって、現代の性表現がどうなっているかをまとめてみないかということになり、『20世紀の性表現』を書きました。クロノロジー(編年)の形式で19世紀末から1995年まで、ほぼ100年のスパンでどういう性表現が出てきたかをみていきました。その中で、20世紀は写真や映画やテレビや雑誌など、新しく登場した様々なメディアを通した“覗き”(スコポフィリア)の時代だったことが見えてきた。他者の性愛行為を覗くことに人類がこんなに熱中した世紀はなかったでしょうね。結局一年間くらいこの本に費やしたんですけど、あまりにも膨大な資料に目を通したので、書きあげた後はヘトヘトになっちゃっいましたね。本自体はすぐになんども増刷するほど反響があったんですが、達成感とともに、世の中の全ての性表現なんて網羅できるわけがないという無力感もあって、こんな作業は2度とやりたくないとも思いました。性にまつわるどんな表現があってもいいし、その多様性が人間である証拠だということはわかったけど、それと同時に、ではその中に生きている自分のセクシュアリティは、どうなんだ?という問いを突きつけられました。フェティシズムを含めた自分の性へのオネスティ=正直さを基準にしない限り、何も説得力がない。

それでしばらく休んで、ちょっと突き詰めて考えてみたら、僕がグッとくるのは距離にして30㎝くらいのところから見た身体部位のクローズアップだと。それぐらいの距離感で近づいてじっと見ていることに至福を感じる。従来のヌード写真のジャンルには、見渡したところ、この“近距離愛のようなものだけにこだわった表現はあまりなかったので、じゃあその視点、自分が一番グッとくる「距離」にこだわってヌード写真を撮っていこうと思ったんですね。そして乳房のクローズアップ作品を撮り始めました」

 

乳暈からつむじまで…人間の身体は渦を巻いていると確信する伴田

伴田良輔

伴田:「接近して観察してみると、人体っていうのは渦なんですね。ツムジにしろ、指紋にしろ、完全なシンメトリーではなくて渦を巻いています。そのことにはうすうす気が付いていたんですが、ある日、撮影した乳房のクローズアップ写真を現像していて、乳暈、というか乳輪が渦を巻いていることを発見したんです。その写真がこれです(図版)。下着メーカーのワコールが京都で主催している乳房文化研究会という真面目な学会があるんですけれども、そこにゲストで呼んでもらって乳房写真家として講演をした時に、この写真を見せて「乳輪渦巻説」を、あくまでも仮説として発表したんですね。そしたら皆さんキョトンとして(笑)。

伴田良輔
20年に渉って乳房を撮ってきたのに、もう一つの身体の中の曲線美の見所であるお尻の撮影は、なかなか納得のいくアングルが見つからなくて、撮り始められませんでした。ところが、今から5年くらい前に、この写真のような(図版)、うつぶせになってちょっと持ち上げてもらってやや斜め上からのアングルで撮った時に、「ああ、これだ!」みたいな瞬間があって、それからは、このアングルで色んな女性のお尻のラインを撮らせてもらっています。撮ることは発見することでもあります。お尻と太ももの境目にできる菱形の窪みに自然光が当たって作る陰影は、神様の造形だと思う。お尻から連続している太ももの延長上の、膝の裏、“膕(ひかがみ)”という部位も、一人一人の陰影や個性があって、膕だけでも十分一冊の写真集ができると思っています。

伴田が惹かれるという細部の一つ膕(ひかがみ)


 

西洋美術のヌードの歴史に見せる「線」の問題と伴田の写真の共通項

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503年-1519年頃、ポプラ板に油彩、77×53cm、パリ、ルーブル美術館蔵 [Public domain]

谷川:「西洋美術ってほとんど対象が肉体なんですね。アリストテレスは「芸術は自然の模倣だ」と言いましたが、それを聞くと日本人は風景だとか花だとかそういうものを思い浮かべると思うんです。でも、自然というのは人間の本性(ほんせい)のことなんですよ。対象の持っている本性を掴むという意味で西洋の芸術というのは全て人間を扱ってきた歴史です。僕はヘレニズム、ギリシャ・ローマ文明は裸の文明だと思うんです。肉体を鍛えて、立派な裸をみせることを良しとする、それを彫刻にする。

もう一つ、ヘブライズムについてお話をしましょう。ユダヤ=キリスト教では最初、アダムとイヴが裸で楽しんでいましたけれど、知恵の実を食べて楽園を追放されましたね。あの時、何が起きたかというと男女は素っ裸だったけれど、初めてお互いの違いを感じて、性器に目がいって恥ずかしくなったわけです。「人間の裸は恥ずかしいものだ」と。エデンの園を追放されて以来、人間は裸を覆います。ヘブライズムは、裸を覆う布の文明です。だからヘレニズムとヘブライズムの二代文明原理が西洋を作ってきたのだけれども、ルネッサンスになって……。ルネッサンスは「再生」という意味ですけれども、何が再生したかってヘレニズムが再生したんです。で、裸を見せてもいいっていう原理が出てきたので、ルネッサンス美術に裸の女性が登場するようになりました。

オーギュスト・ロダン《考える人》1902年、パリ、ロダン美術館蔵

彫刻の歴史というのは、ヌードの歴史とも言えます。近代になってオーギュスト・ロダンが現れ、彼はギリシャ・ローマ彫刻が素晴らしいので復活させようとしました。しかし、ベルヴェデーレのトルソ……。トルソとはイタリア語で手足のない胴体という意味ですけれども、これ以上の肉体は作れない。これからは断片でいこうと言い始めたんです。だから、ロダンというのはアンビヴァレントな人で古典的彫刻を復活させたと同時に全体的な肉体を解体したんです。彼はそうした解体を「断片様式」と呼びました。胴体だけだとか顔だけ一つやるとか、あれはロダン以降なんですよ。まだ僅か100年ちょっとの歴史しかない。ロダンは復活者であると同時に解体者でもある。

だから、伴田さんの写真は断片様式なんですよね。今回発売された写真集には非常にシンボリックなタイトル『CURVES』をつけられましたけれども、いわゆる曲線ですね。西洋の芸術史に線の問題は大きくありまして、多くの人が論じてきました。これは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ホモ・カドゥラートゥス」という絵です。ホモ・カドゥラートゥス、つまり正方形人間というのは、古代ローマの建築家、ウィトルウィウスが人間の理想的な体は臍を中心に円を描いて、円の中で両手両足を斜めに伸ばすとそれが正方形になるという思想です。しかし、実際にそれをやるとですね、手足が異常に長くならないといけないんです。レオナルドはそれを改変し下げ、正方形の一部を円の外に出した。そうすると少し手足が短くても正方形と円の中に収まると。よって、レオナルドの描く人間はわりと手足が短くずんぐりしています」



伴田の身体渦巻説はル・コルビュジエが提言していた?人体と巻貝の比率は、ほぼ同じ

谷川:「曲線をやめようと声を上げたのが、建築家のル・コルビュジエです。アールヌーボーに対するアンチテーゼだけれど、彼は直線こそ美しいという純粋主義を唱えました。一方で彼は、巻貝と人間が持っている数字はよく似ているとも言っているんです。螺旋形、黄金比なんですよ。直線こそ美しいと言いながら、彼の建物には螺旋形の階段がついているものが見受けられます。さきほど伴田さんが仰った乳暈の曲線、螺旋があるというと、コルビュジエの言っていることと通じます」

伴田:「なるほど。直線と曲線の葛藤ですね。そのあたり、僕もすごく興味があります。ただコルビュジェが提唱したモデュロールは身長183㎝のかなり大きな人間を基準にしてるんですよね。だから日本の建築にはそのままは当てはまらない。建築空間と身体を統括する一つの尺度みたいなのをモデュロールに集約させたんでしょうね」

谷川:「植物の枝の出方がね、螺旋になってるんですよね。その計算の仕方は知らないけれど、螺旋形なんです。モデュロールの数字と同じなんですよ」

伴田:「フィボナッチ数列ですね」

谷川:「そう。だから、生命はすべてこの数字が隠されている可能性がある」
 


名指すことが出来ないところに写真の奥深さがある。言葉の表現と写真の関係性
 

谷川渥氏
谷川:「ヌードのフェティシズムというのは、僕の言葉で言うと修辞学的欲望なんですよ。女性の全体像に欲望しない。部分、例えば下着とかね。身につけているものにやたらと執着する。修辞学でいうと換喩(かんゆ)です。換喩というのは、実際のものを指さずに隣のもので指す言い方。例えば、「グラスを傾ける」なんて言葉は換喩表現なんですね。グラスを傾けるというのは中のワインを飲むという意味なんですが、器を傾けてるだけじゃなく、中のものを飲むということでしょ。だからその女性の身につけているもの、下着だとかに執着するのは換喩的欲望。それから、部分で全体で表すのは提喩(ていゆ)。例えば「青い目」というので白人を表しますね。身体の特徴及び欠陥を指して全体を表わそうとするでしょ。要するに、部分で全体を表す。伴田さんは必ずしも部分で全体を志向していないのかも知れないけれど、大体提喩的ですよね」

伴田:「なるほど、たかにそう言われると提喩的だと思います。先ほどおっしゃった、ロダンが身体の部分を分断して彫刻したような意味での「切断」的な視線ではなくて、逆に細部から視線や想像を周囲に伸ばしていく、「延長」の視線だと思っています。乳房の上には鎖骨があり、肩がある。お尻の下には、太ももがあり、その先には膕(ひかがみ)がある。部分からゆっくりと視点が動いていく訳です。でも距離はいつも30㎝くらいなんですよ」
 

山崎文庫で開催された展覧会の様子

谷川:「また、顔があるとないとじゃ随分違うんじゃないかな。角度の問題もあるけれども。顔がないですからね、伴田さんの写真には。顔があるとちょっと猥褻感があるんだけれど顔がないとありません。
 それに、伴田さんの写真は隠喩的じゃないよね。隠喩というのは全体を全体に置き換える。女性を見て薔薇の花、とかね。伴田さんの想像力は隠喩的ではない」

伴田:「ええ、隠喩ではないですね。僕は対象を何かに置き換えて説明してしまう隠喩というバイアスが、写真論をダメにしていると思うんですよ。一昔前のグラビア写真なんかも、ほとんどそうでした」

谷川:「なるほど」

伴田:「例えば僕の取った乳房やお尻の写真を、果物に喩えて分類してくれ、という依頼がメディアからしょっちゅうあるんです。僕は、もう馬鹿!って追い出したいんですけど(笑)。お尻は桃じゃない!乳房はスイカじゃないし、レモンでもない(笑)。お尻はお尻、乳房は乳房だ!でも、皆さん、どうしても何かに置き換えたがりますね」

谷川:「大体果物に置き換えたがりますね」

伴田:「分類ほど陳腐な言葉の作業って無くてね。言葉を持ってしまった人間の悪しき習慣というか。どうして、そのまま見れないんだ!って思ってますよ」

谷川:「名指すことが出来たら、写真としてちょっと失格じゃないですかね。名指せないからこそ作品の力があるんであって」

山崎文庫で開催された展覧会の様子

伴田:「はい。写真を僕らは言語では決して語り尽くせないと思いますよ。写そうと思ったもの以外に、機械の目が勝手に写してしまうものも沢山写ってしまう訳だから、簡単に言語化できるわけがない。でも、なんか解りやすい言葉で、ただの果物に置き換えて下さいと求めてくるんですよ。写真はそれこそ、取りつく島がないところでも僕はいいと思っていてね。そこで耐えて欲しいわけ。でもどうしてもじっと見ているだけでは耐えられなくて、それを言葉に置き換えたい、比喩に置き換えたいというね欲求が人間の中に生まれてくるんですよね。なんでかな、という不思議さはありますよ」
 


鈴木春信に見る、春画の直線と曲線の対比と日本独自の覗き

鈴木春信『風流艶色真似ゑもん』1768-1770年頃、錦絵、21.11×28.73cm、ミネアポリス、ミネアポリス美術館蔵 Public Domain ©The William Hood Dunwoody Fund

 

鈴木春信『風流艶色真似ゑもん』1768-1770年頃、錦絵、21.11×28.73cm、ミネアポリス、ミネアポリス美術館蔵 Public Domain ©The William Hood Dunwoody Fund

伴田:「これは僕の好きな鈴木春信という江戸時代の浮世絵師の描いた春画です。春信の春画にはたいてい画面のどこかに真似ゑもんと呼ばれるう小さなおじさんがいます。春信の春画は、美しい線で肉体が描かれていて、今日のテーマである曲線的なエロスに溢れた作品だと思うんですが、その曲線が際立って見えるのは、実は画面の中の柱や襖の垂直線との対比があるからなんです。先ほどの谷川さんのコルビュジェの建築の直線と曲線の対比のお話とも通じますね」

谷川:「この右側の男女と左側の男女って同じ人でしょう?西洋画風に言うと異時同図法ですよね。異なった時間が同じ絵の中に描かれている」(註1)

伴田:「なるほど、そうかも知れないですね」

谷川:「そして小さな男、真似ゑもん……。この覗き!(笑)。日本人の驚くべき発明ですよ」

伴田:「真似ゑもんの目を通して、僕らが覗いているとも言えますよね。距離やアングルの転換が、カメラなんかなくてもできている」

(註1)谷川氏がこの発言内で言及しているのは、画像を掲載している鈴木春信『風流艶色真似ゑもん』とは別作品。
 

話は再びモデュロールへ。伴田式モデュロールとこれからの好奇心の行先

伴田が考案したタングラムボディ

伴田:「モデュロールの話に戻りたいと思うのですが、極小の素粒子から宇宙の最果てまでのスケールを考えた時に、およそ10のマイナス30乗から10の30乗までの大きさの幅があって、人の身体の大きさはちょうど10のゼロ乗、つまり1メートル前後の大きさになるんですね。空間のミクロとマクロのスケールの、ど真ん中あたりに位置しているらしいですね。でも何故ちょうど真ん中あたりなのかはわかならい。身体と空間の関係を、コルビュジェとは違う方法で表せないかな、と考えて作ったのが、このタングラムボティです(図版)。タングラムという数学的なシルエットパズルがありますが、それで遊んでいる時に思いつきました。タングラムの最小グリッドである直角三角形16個を組み合わせて出来た身体シルエットです」

谷川:「これは女性ですか?男性ですか?」

伴田:「これは女性を表しています。16の三角形の一つ一つはスライドしてズラすことができます。基準からはみ出すものの方こそ面白かったり美しかったりすることがある。ズラす動きには円や正方形よりも三角形が適していますね」

谷川:「西洋人の一種のオブセッションですよね。正方形と円という形で考えようというの」

伴田:「正方形と円の確執が常にありますね。その確執から出てくるのが螺旋ですよね。そしてその螺旋を作るモメントには三角形が出てくる。螺旋の数学的表現である対数螺旋も「三角関数」で表しますね」

谷川:「伴田さんのモデュロールは三角形じゃないですか。女性の乳首と臍との関係は正三角形が理想的だなんて説もあるけれど、そうすると相当、胴が短くなるんです。乳首と臍が二等辺三角形ならまだわかるけれども。正三角形っていうのは無理だと思うなあ。身体の中になんとか正三角形を入れようとするんですよ」

伴田:「確かに正三角形は無理がありますね。直角三角形の方が自然です。女性がうつ伏せになったときに、尾てい骨と仙骨の先端の2点を結ぶと正三角形になるんですが、それが唯一、人体の中の正三角形かもしれないですね。その仙骨が人体全体の動きを司る場所だと言う人もいます」

伴田良輔

谷川:「顔とか口とかも三角形で取れるんだけれども。正方形か円か三角形なんですよね」

伴田:「顔も、よくみると微妙に左右でずれたり歪んだりしていて、螺旋的な動きがありますね。30センチの距離から見ているとそれがますますはっきりわかる。人間の体は非対称だと、いつも思います。それなのに美しい」

谷川:「オイリュトミー、ルドルフ・シュタイナーの舞踏があるでしょう。左右対象じゃないのに、自由な動きがあるのに調和がある。その辺りと関係があるのかな?」

伴田「そうかもしれません。対称性ということでいえば、キラリティ=対掌性という概念がありますよね。「称」でなく、「掌(てのひら)」という文字を使うんですけど、実像と鏡像の関係のことですね。鏡にうつした手をこっちに持ってきて実際の手と重ねようとしても重ねられない。それがキラルであるということですね、このへんに最近すごく興味がある。身体や空間の“重ならなさ”ということに」

谷川:「鏡の中に入って向かい合った自分は左右対称じゃないですよね。カントもその問題を論じているんですよ。「鏡像の左右と見ている自分の左右は違う」ということをね。鏡を見たときに自分の顔を見ている訳じゃないから。実在しない顔を見てるんですよね。僕はその辺りについて『鏡と皮膚』という本の中で論じていますので、ご興味ある方は是非」

伴田:「実は今、谷川さんと僕で本を作っているんです。身体表現の美術史をひもときながら、生物学的、進化論的な視点なども入れて、人間のエロスの秘密に迫ろうとしています。きっと面白い本に仕上がると思いますので、そちらも楽しみにしていて下さいね。本日は、ありがとうございました」

現在の伴田を魅了してならないのは、トークショーの中に何度も出て来たように「螺旋」あるいは「渦」だ。現在の伴田は「有月」(うげつ)の名で、渦の画家としての活動も精力的に行っている。三畳一間から始まった飽くなき妄想と探究心は、今後も緩やかかつ自由な螺旋を描いていくことだろう。


【伴田良輔写真集『CURVES 柔らかな景色』】
写真作品66点(うちカラー6点)
著者あとがき「午後3時の窓辺で」※英訳あり
解説「CURVES-裸体の横顔」池谷修一(写真編集者)※英訳あり
ページ数 112 ページ
価格 4,300円(+税)
B5変型判上製
編集 池谷修一
装幀 加藤勝也
印刷 東京印書館
発行 株式会社 皓星社(こうせいしゃ)


【伴田良輔(はんだ・りょうすけ)】
京都生まれ。1986年『独身者の科学』でデビュー。以後、評論活動を主軸としながら、美術家としても従来のジャンルにとらわれない幅広い領域を横断する表現活動を行う。 国内外で写真展多数。女性の身体に焦点をあてた写真集に『鏡の国のおっぱい』(2003)、『BREASTS 乳房抄/写真篇』(2009)、『mamma』(詩人谷川俊太郎と共著)、『HIPS 球体抄』(2012)などがある。

【谷川渥(たにがわ・あつし)】
美学者。1972年、東京大学文学部美学芸術学科卒業。78年、東京大学大学院人文科学研究科美学芸術学専攻博士課程修了。マニエリスム・バロックからモダニズム・現代美術にいたる広範な領域を視野に収め、美学原理論、芸術時間論、廃墟論、だまし絵論、シュルレアリスム論、そして「芸術の皮膚論」など、独自の視点による美学的地平の開拓に努め、多方面にわたる批評活動を展開。著書に『形象と時間』『美学の逆説』『芸術をめぐる言葉』『鏡と皮膚』『図説だまし絵』『廃墟の美学』『肉体の迷宮』『書物のエロティックス』『幻想の花園』など多数


協力:伴田良輔、池谷修一、皓星社

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